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絵の教室に行って泣いた話(後編)

前編からの続きです。

4枚目以降飛ばして最終作品

その後も何枚かワークして、最後に描き上げたのが、冒頭に載せたこちらです。

完成した時、「広告にあった受講生作品のような、味のある絵が私にも描けたー!!アートっぽい!!」とすごく嬉しかったです。先生は絵を「描く→生まれる」と表現されていたのですが、まさに自分から生み出された感じで、「誰になんと言われても、私はめちゃくちゃ好き!!すっごい良いじゃん!!」と思いました。自分の絵にそんなことを思ったのは初めてです。先生が「自分が描いた絵をTシャツにする方もいますよ」と言っていたのも納得です。他の参加者の方々の絵の変化も見てきたので、最後は「わー、あの人っぽい絵になってるなあ」と、それぞれの味わいが感じられ、上手い下手をジャッジしようがなく、まさに「みんな違って、みんな良い」でした。

前半で書きましたが、最初は自分の絵が見られるのも、人の絵を見るのも、気恥ずかしいのですが、途中からは「言われた通りに描いたらこうなっただけですし」「他の人はどうなった?見たい見たい」という感じで、恥ずかしさは無くなっていました。

終わってから1枚目の絵を見ると、複雑な気持ちになります。

先生が1枚目を書き終わった後の解説で、「今皆さんが描いたような、今までのやり方で描いた絵っていうのは、その絵のゴール(上手くなった先)を想像した時に、『足りないところ』が見えてくるんですね(正確なバランスで描くとか、影を正しくつけるとか)」と言っていました。確かに、1枚目のような絵の描き方を突き詰めても、最後の絵が描けるようになるとは到底思えません。だから、絵の練習にハマれなかったのだと思います。

ネタバレになってしまうのでどんなワークをやるかは書きませんでしたが、絵の変化を見ると「クリエイティビティを大爆発させる方法を習える」とか「自由に楽しく伸び伸び描けるようになる」を期待するかもしれません。でも私の感覚としては前に書いた通り、「ただ先生の言うやり方で線を引いていたらこうなりました」という感じです。ひたすら、観察と線を引く作業をしました。油断すると出てくる思考をOFFにするのが大変でしたが、多分それがポイントの1つで、顔とかリンゴといった「こういう形で、色で」といった「概念」があるものは思考が働きやすいので、どんなものもフラットに捉えるための方法の1つです、との解説がありました。描いている間、教室の広告に書いてあったような「気持ちいい」「楽しい」というのも私は特になかったです。自由に描いたという感覚もなく、むしろかなり不自由な描き方で、2枚目の後の感想で「苦痛で仕方なかった」と言っていた人もいました。自分の発想を使ったとしたら「この境界や影をサインペンで表現するにはどうしよう?」というところくらいです。この絵の、鼻とか。

なんだこの鼻は、という感じですが、先生が「この鼻なんか、いいですよねえ」とつぶやいてくださったのを聞き逃さず、心の宝箱にしまいました。顎先の線は集中力が切れて、気付いたらいつもの思い込みを使った描き方になって慌てたのが表れています😅どうして思考を使わない方が、味のある線になるのか、不思議です。思考を使った絵は、見る人にも思考を使わせてしまうのでしょうか・・・。

先生は、みんなの絵を見せながら「この線がいいよね」という褒め方をされることが多く、描いている過程での感情を抜きにした、「生まれたものの中に、美を見出す視線」というのを教えてださって、「芸術家ってこういう目線で物事を見てるんだなー」と新しい発見でした。

長沢節先生が伝えていたこと

ワークごとの解説の中で、セツ・モードセミナーではこんなことを教わった、こんな授業で、こんな教え方だった、という話も盛り込んでいただけるとは思っていなかったので、とても嬉しかったです。メモしたのが

  • 長沢先生が大切にしていたのは、「自由+◯◯◯(内緒にしときます笑)」
  • 傑作とはまぐれ
  • 絵はそれを描いたその時の空気も描いている
  • 絵の描き方は教わらないけれど、先生がみんなの絵を見ながら「これいいね」と評される中で、先生の美的感覚を学んでいった

というところです。前編の最初の方で描いた、「クロッキーって、気を描いてるんだ」という発見と重なったり、「たまにまぐれで描ける素敵な線をまぐれじゃなく描けるようになるには?」という謎に、「あ、まぐれでいいってこと?」と感じたりしました(伏線回収)。

長沢先生が伝えようとしていたもののカケラを分けてもらえた気がして、教室の空間に、会ったことのない長沢先生の粒子?量子?が出てきたような感じがして、ちょっと泣けました。

生活や仕事に重ねて感じたこと

「正しさ」を軸にしない生き方

「正しさを軸にしない」、これが今回素敵な絵を描けた以上の大きな学びでした。

先生が、「正しさっていうのは、時代や国などが変われば変わります」と言った時、ハッとしました。以前、アンパンマンの作者やなせたかしさんが、戦争・敗戦で一夜にして正しさの定義が変わった経験から、

「正義はある日突然逆転するもの」
「逆転しない正義は献身と愛」

と書いているのを読んで心に残っていたのを思い出しました。

先生は従来の正しく描くデッサンを否定はしていませんでした。素人の私でも、デッサンが上達すれば表現の幅が広がるんだろうなというのは分かります。でもその正しさは、表現のためのツールで、ゴールではなかったです。

それでもなぜ正しさにとらわれてしまうのか。

正しさのエネルギーをイメージするとき、直線的で鋭い、固い感じがします。正しいものとそうでないものを分断するような。それに対して今回教室で感じた「正解がない世界」は、曖昧でとらえどころがない、ランダムに発散する、柔らかいエネルギーという感じがしました。前者の方が余計なものを切り捨てる分、力強く、分かりやすいし、伝える時も受け取る時も、評価する時も楽なんですよね。一度に何十人も教えなければいけない学校や、いろんな人がいろんな思惑でうごめく社会では、多くのことを誰かが決めた、外側にある正しさで判断していくしかないのだと思います。でも自然や命の本質は後者の「正解のない世界」です(正しさで規定できる側面も含んでいるのがややこしいところ)。

正しさを知っていてもそれを選べないことは沢山あって、それでも何かを軸に選択を繰り返しながら生きているのに、私はずっと、正しさを主軸にジャッジしたりされる世界で、違和感や罪悪感を感じながら生きていたんだなー・・・というのが、今はこうしてそれっぽく言葉にしていますが、先生の解説中に、見えないものになって押し寄せてきて、固まっていた何かが緩んで、じわりと泣けました。

正しさを軸にしないなら、先生は何を軸にすることを提案するのか、そこにもまた長沢先生のスピリットを感じました。これも知りたい方は直接聞いた方がいいと思うので、ここでは内緒にしておきます。

鍼灸治療への影響

私は施術をしながら「治療って、アートだよなあ」とよく思っていたのですが、私のそれまでの「正しさ」の枠組みの中では言ってはダメなことでした。でも今回、やっぱりそうだよねとOKを出せました。

受講の翌日から、具体的にどうというのはありませんが、治療が変わった気がします。無理やり言葉にするなら「答えのない中で、自分なりの正しい状態に整えていく」から、「今まで学んだ沢山の正しさをツールにして、答えのない人間という生き物に向き合う」に変化した、かもしれません。表現しきれていない気もしますが、とりあえず1つ力が抜けたのを感じています。

最後に(教室・先生について)

講師の先生は「マツコの知らない世界」のあの印象的な絵を描いている有名なアーティストの方です(帰宅後に調べて知りました💦)。そんな活躍中のプロの方に絵を習えて褒めてもらえただけでも貴重な経験でした。

長文を読んでいただきありがとうございました。とりとめなくなってしまいましたが、絵に興味を持ったり何か感じていただけたら嬉しいです。

私が勝手に解釈してしまったところも多いので、興味がある方は是非体験して自分の感覚で上書き保存してください。教室のリンクを貼っておきます。

木村創作室 | アートライフ

誰でも自動的に個性炸裂画が描けるようになる型破りデッサン術。…

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